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献上のイメージ

日金山(東光寺)

昔の大湯

大正時代の御用邸


熱 海 温 泉 の 由 来
平安時代には伊豆山神社が修験の霊地であったことから,それ以前から温泉地としての地位は確立されていました。

平安時代末期には、源頼朝が伊豆に流され中伊豆から日金山(東光寺)に源氏再興をお願いしながら伊豆山神社に勉学に通いました。

やがて源氏再興の願いが叶い征夷大将軍となり鎌倉幕府が、誕生しました。

日金山(東光寺)、伊豆山神社、等を中心に頼朝、政子の庇護の元、熱海温泉は発展していきました。

頼朝、政子は日金山に感謝し願掛けの源氏再興の折りには毎日東光寺にお参りを致しますとの約束を果たす為に、日金山東光寺の分室を鎌倉につくり東光寺としてお参りをしていました。

現在はその東光寺跡地に明治天皇が、南北朝時代不遇の死を遂げた後醍醐天皇の皇子大塔の宮様をお祀りする為に、鎌倉宮を建立しお参りをする人がたえません。

時代も移り戦国時代末期、慶長九年三月、征夷大将軍となった徳川家康が熱海温泉の大湯に七日間湯治の為逗留しました。

江戸時代には、徳川御三家を筆頭に小倉城主徳川忠利、鹿児島城主島津久光、奥州城主伊達忠宗、盛岡城主南部重直、金沢城主前田綱紀等多くの代名達が湯治に来ました。

又、将軍様に温泉の献上が行われる様になりました。現在でも約90℃と非常に高温の大湯から、江戸城に着く頃、献上温泉の樽の温泉はちょうどいい湯加減を保っていたそうですから、担ぎ手の健脚ぶりは驚きです。記録では昼夜兼行で15時間、その風景から「熱海よいとこ日の丸たてて 御本丸へとお湯が行く」という唄が生まれました。その後、湯樽は船で運ばれるようになり、8代将軍吉宗公の時が最も盛んで、享保11年から19年までには3640樽送ったと伝えられています

それに伴い熱海温泉の名は全国に知れ渡り、熱海七湯として大湯、野中の湯、清左右衛門の湯、小沢の湯、風呂の湯、川原湯、佐治郎の湯、は全国に知れ渡りました。

明治時代において高品質の評価で別荘などが急増しました。例えば、フランス公使・ロッシュは若き日の傷が痛み、たびたび熱海に逗留、熱海での温泉療法で健康が意外に回復したと祖国に手紙を書いています。大政奉還ことや、皇太子教養主任陸軍中将・曽我祐準(後の東宮太夫・将軍・枢密院顧問)は明治8年から熱海に通いリュウマチを治療したことなどが挙げられます。


日本で最初の温泉保養センター

わが国初めての温泉医療、療養センター「きゅうき噏滊舘」(きゅうき館)が熱海温泉に建設されました。明治18年(1885 年)、時の右大臣岩倉具視が、病気療養の為に後藤新平、井上馨、長与専斎らが決定し、大湯の隣に建設されました。ドイツの気圧吸入器が設置され、当時としては最新式の医療施設でした。医師も常勤し、結核に良いということで熱海温泉に多くの結核患者が集まりました。しかし大正9(1920)焼失しました。

 

御用邸の建設

体の弱かった大正天皇の為に、今の市役所に建てられました。御用邸としては横浜(明治18年)、神戸(明治19年)に次ぐ3番目。温泉地としては一番早い建立で、翌年には伊香保温泉に建てられました

(中央の瓦屋根)